中原御殿、中原御林の誕生

天正18年(1590年)、徳川家康は関東に入国し、江戸城を居城とする。

小田原から江戸に至る途中では、中原宿で鷹狩り(放鷹)を楽しむ。

これを最初とし、家康はたびたび中原で鷹狩りを行い、やがて中原御殿の造営となる。

 

文禄4年(1595年)の秋、逗留の際に利用していた豊田本郷村の清雲寺が、洪水で利用できなくなる。

そこで、慶長元年(1596年)、家康の江戸と駿府との往復や鷹狩りの際の宿舎として、代官陣屋に隣接して中原御殿が造営される。

(造営年は、1609年の説もあり)

 

家康は、慶長4年(1599年)2月にも鷹狩りに訪れ、中原御殿に逗留する。

確認できる限りでは、合計9回の逗留の記録が残る。

 

慶長6年(1601年)、代官頭・伊奈忠次により、中原御殿の周辺に中原御林(おはやし)が植林される。

15箇所・約120町歩(約120万平方メートル)に渡って、松の他、けやき、落葉松、漆などの植付がある。

 

慶長12年(1607年)、駿府城が修築されると、家康は江戸から駿府に移るが、この頃から中原御殿を利用する鷹狩りの旅が多くなる。

 

元和元年(1615年)には、関東での最後の鷹狩りが行われる。

中原御殿には、10月5日~7日、12月6日~12日の間、逗留する。

 

元和2年(1616年)4月17日、駿府城において家康が亡くなると、遺命によって霊柩を日光に移すことになる。

元和3年(1617年)の霊柩の移葬の中では、3月20日に中原御殿に到着し、止められる。

 

中原御殿は後に、「雲雀野(ひばりの)御殿」と称したと言われる。

また、「御鷹野御殿」とも称された。

 

中原御殿の東西は78間(141メートル)、南北は56間(101メートル)で、四方に6間(10.9メートル)の堀があり、面積は4368坪(1万4414.4平方メートル)であった。

 

明暦3年(1657年)、江戸で明暦の大火が起こり、江戸城及び城下町が類焼する。

中原御殿は解体され、江戸城材に利用するために移送される。

 

元禄10年(1697年)、御殿の跡地に新たに松や檜などが植えられ、御殿地御林となる。

村民は御殿地の中に東照宮を建立し、家康の命日の4月17日には法要の行事を行った。

 

享保10年(1725年)の調査では、御林16箇所・126町9反あまりに、5万5195本の植栽があった。

松が中心で、549本が雑木であった。

 

御林から伐採された木は、金目川の堤防や橋の普請といった土木、江戸城などの建築、幕府船等の造船などといった用途に利用された。

遠隔地には、須賀湊を利用して運ばれた。

 

出典:「平塚市史 9」他

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