上杉朝興の侵入

大永4年(1524年)正月、北条氏綱は江戸城に扇谷上杉朝興を攻める。

朝興は敗れて河越城に逃れるが、これにより北条氏は、武蔵の南部地域まで勢力下に収める。

 

朝興は、江戸城の奪回を目指すとともに、たびたび相模に侵入して放火を繰り返す。

天文2年(1533年)11月12日、13日には、大磯・平塚辺りに侵入し、放火を行う。

天文4年(1535年)の9月の下旬から10月の初めにかけては、大磯、平塚、一宮(寒川町)、小和田(茅ヶ崎市)、知賀崎(茅ヶ崎)、鵠沼(藤沢市)などで放火し、狼藉の限りを尽くした。

 

朝興は、天文6年(1537年)4月27日に、河越城で亡くなりました。

相模の人々は、その死を聞いて安堵したそうです。

 

出典:「平塚市史 9」他

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