慶長6年(1601年)、東海道の近世の宿駅として、平塚宿が成立。
交通量の増加により、慶安4年(1651年)に隣村の八幡村より分村した八幡新宿村を加宿。
明暦元年(1655年)には、八幡新宿村は平塚新宿と改称。
平塚宿は、江戸より16里(62.4キロメートル)。
東の藤沢宿までは3里半(13.8キロメートル)で、西の大磯宿までは27町(2.9キロメートル)。
宿駅の両端には見付が築かれ、見付内が宿内と呼ばれた。
東海道は、宿内の東西を貫き、道幅は4~6間(7.2~10.8メートル)。
この街道を中心に、19町5間(2キロメートル)あまり、家並みが続いていた。
宿内の町並みは、東西14町6間(1.5キロメートル)あまり。
総家数は、443軒。
宿内人口は、男1106人、女1008人の、2114人。
宿泊施設は、大名などが利用する本陣と脇本陣が1軒ずつ。
庶民が利用する旅籠屋は、54軒。
宿泊より休止の利用が多かったといわれる。
正徳元年(1711年)の定めでは、藤沢宿までの荷物が1駄(重さの単位)160文、人足1人78文。
大磯宿までは、荷物が1駄34文、人足1人18文。
宿立人馬として、100人・100疋が常置され、不足分は助郷村から徴発した。
出典:「平塚市史 9」他