東海道の付替計画

嘉永6年(1853年)、アメリカ東インド艦隊司令長官・ペリー率いる黒船4艘が浦賀に来航し、鎖国していた日本に開国を要求する。

翌年、ペリーの再度の来航があり、「日米和親条約」が結ばれ、下田と函館が開港する。

 

続いて、イギリスやオランダ、ロシアなどと和親条約が締結される。

こうして、200年以上続いた幕府の鎖国政策は、終止符が打たれる。

 

安政6年(1859年)には、神奈川(横浜)も開港する。

このような中、文久2年(1862年)8月、イギリス人リチャードソンら3人を薩摩藩士数名が殺傷するという生麦事件が発生する。

 

同年、外国人通行の保護策の1つとして、東海道の付替計画が持ち上がる。

東海道の内、品川宿から平塚宿までの間を、矢倉沢往還(大山道、現在の国道246号線)へ付け替えるもの。

 

計画では、江戸の青山から二子渡しで多摩川を渡り、長津田村(横浜市緑区)、鶴間村(東京都町田市)、瀬谷村(横浜市瀬谷区)、寺尾村(綾瀬市)、国分村(海老名市)、河原口村(海老名市)を経て相模川を渡り、厚木村(厚木市)に至る。

酒井村(厚木市)から矢倉沢道を外れ、相模川右岸に沿って南下し、平塚宿に至る道筋を造成するものであった。

 

計画は、調査まで行われた。

しかし、文久3年(1863年)に中止となり、実現はしなかった。

 

出典:「平塚市史 9」他

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