報徳仕法は、二宮尊徳が起こした仕法。
市域では、片岡村仕法や南金目村兵左衛門仕法などがある。
天保8年(1837年)、片岡村の割元名主・大沢市左衛門は、小田原藩に登用されていた二宮尊徳を訪ね、仕法の指導を受ける。
そして9月に、「三才報徳現量鑑」が作成される。
市左衛門は子息・小才太とともに、村民への推譲を実施する。
他借と合わせた391両を土台金として、助成や貸付などが行われた。
天保10年(1939年)は、122両を土台金として、助成貸付をした。
天保11年(1940年)の正月、市左衛門は尊徳に成果を報告した。
そこで本格的に、片岡村の仕法指導が行われることになった。
1月28日には、「村柄取直趣法御土台帳」が出来上がった。
以後、嘉永2年(1849年)までの10年間、一村仕法として実施された。
大沢家からは年々、186俵を限度として、村民に助成されることになった。
村内の27軒の百姓に対して、善人を推挙する入札を行った。
その結果、3名に対して1年間、大沢家持高の内から田が貸し与えられることになった。
この入札は、嘉永2年(1849年)に至るまで、毎年行われた。
大沢家が12年間に土台金として支出した金額は、1422両に上る。
天保14年(1943年)11月、市左衛門が死去する不運があったが、小才太が後を継ぎ継続した。
この結果、片岡村の状況は立ち直り、納米延滞は皆無になった。
嘉永3年(1850年)3月、大沢家から尊徳に、10年間の諸帳面と大沢家の家法「家株永安相続趣法議定書」が提出された。
尊徳は、片岡村での復興事業を評価して表彰し、報徳善積金100両と「報徳金克譲増益鏡」(尊徳の教訓を記した書)を与えた。
片岡村では、嘉永3年(1850年)に、村民による自力推譲を中心とする永安仕法が作られた。
嘉永5年(1852年)には、大沢家中心の仕法事業を克譲社として創立し、村民の経営に委ねた。
尊徳の弟子の一人である福住正兄は、市左衛門の5男。
弘化2年(1845年)10月、尊徳に入塾を許され、5年に渡り指導や教訓を受けた。
著書に、「二宮翁夜話」「富国捷径」などがある。
南金目村では、天保11年(1840年)、名主・兵左衛門に対して報徳仕法が検討された。
そこで尊徳により7つの手段が考えられたが、結果的に立ち直りはできなかった。
片岡村仕法は、報徳仕法の中で、最も成功したものの一つと言われているそうです。
出典:「平塚市史 9」他