平塚空襲

第二次世界大戦の終盤、米軍による日本本土への空襲が増加する。

 

空襲は、大都市から地方中都市へと移っていた。

1945年(昭和20年)7月の空襲では、「中産業都市」の沼津・大分・桑名・平塚の都市部が選定された。

 

平塚は、平塚-横須賀-横浜の重要産業の三角地帯の西翼に位置し、航空兵器や関連産業の中心地として重要である。

また、海軍火薬廠や通信技術開発センターを持ち、航空機「バカ(ロケット式特攻機桜花)」の生産に関わっているとされていた。

 

1945年(昭和20年)7月16日、米軍の第314航空団所属のB29爆撃機136機は、グアム島北飛行場を出発する。

平塚までの距離は、約2250キロメートル。

 

搭載した爆弾は、M17焼夷弾(テルミットマグネシウム焼夷弾単体を110本集束)が3819発・954.8トン。

M47焼夷弾(油脂焼夷弾)が、7162発、246.9トン。

 

平塚の天候は、全曇り空。

 

一番機が爆弾を投下したのは、7月16日の23時32分。

最終投弾は、翌日の1時12分。

爆撃は、1時間40分に渡って行われた。

 

攻撃は、高麗山、国府村寺坂、金田村入野・長持、大野町中原・真土・四之宮・八幡、茅ヶ崎町中島・柳島など、平塚市外周部から始まる。

その後、次第に市街地へと移った。

 

市街地の3.7平方キロメートルの内、被災焼失域は57%の2.1平方キロメートル。

工業地区2.3平方キロメートルの内、被災地域は23.4%の0.5平方キロメートル。

全体の攻撃面積の44%が破壊された。

 

7月16日、17日の空襲とその後の艦載機等による空襲の人的被害は、死者237人(周辺町村を含めると330人)、重軽傷者268人、罹災者3万5336人。

罹災戸数は7678戸で、戦災面積は214ヘクタール。

多くの地区や軍施設、軍需工場が被害を受けた。

 

7月16日、17日の後にも、空襲は続いた。

7月30日や8月13日の空襲では、日本国際航空工業などが標的となった。

制空権を握った米軍の攻撃は、終戦の前日まで続いた。

 

平塚が激しい空襲を受けたのは、県内の重要産業の地であり、「航空兵器並びに関連産業の中心地」であったため。

関東地方では、八王子市と並ぶ大掛かりなものであった。

 

出典:「平塚市史 10」他

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