関東大震災

大正12年(1923年)9月1日、午前11時58分44秒、関東地方南部を大地震が襲う。

震度6、マグニチュード7.9、震源地は相模湾北西部。

足柄平野を貫流する酒匂川と大島を結ぶ線上の海溝の陥没と隆起によるものであった。

 

神奈川県の当時の世帯数は約27万4300であったが、全焼6万8634戸、半焼146戸、全壊4万7619戸、半壊5万2859戸、流出425戸、破損6万8555戸で、被害世帯数は合計23万8238に上る。

罹災率は、86.8%に達した。

 

当時の県民は、およそ137万8000人。

死者2万9614人、行方不明2234人、重傷者6188人、軽傷者1万3336人であった。

 

中郡は世帯数2万1950で、全焼284戸、半焼10戸、全壊7705戸、半壊7021戸、流出105戸、破損4946戸で、被害世帯数は2万71世帯。

罹災率は、87.5%であった。

 

平塚町と須馬町は、家屋の密集地帯で、被害が大きかった。

平塚町では国道筋の家屋店舗は将棋倒しに倒壊し、須馬村の家屋は多くが倒壊・半壊した。

 

海軍火薬廠は綿薬乾燥場が爆発したが、大事には至らなかった。

しかし、研究部棟試験室内のガス管の破裂により爆発・延焼し、構内22棟の建物が消失し、死者4人と負傷者2人を出した。

 

大正7年(1918年)に建設された関東紡績株式会社は、製綿工場及び倉庫を除く外、第1・第2工場が全壊し、従業員245人中2人が死亡した。

損害額は、58万2000円。

 

大正5年(1916年)に工場が建てられた相模紡績工場は、倉庫の一部を残す外、工場は全壊し、従業員約3000人中、死者144人、重傷者25人を出した。

社長の日比谷長太郎も、平塚駅で罹災した。

損害額は、214万3180円。

 

橋梁はほとんどが破損し、馬入川(相模川)の鉄道橋と国道の馬入橋は橋脚より破壊され、通行不能になる。

県道等の道路は被害が少なかったが、一部では道路の陥没などで交通が遮断され、渋滞を起した。

 

地震の日からおよそ2週間後には、小田原町から平塚町を経て中郡相川村戸田(厚木市)まで自動車で走れるようになった。

東海道線は18日頃には、平塚から国府津を経由して、松田まで開通する見通しがついた。

 

大正13年(1924年)1月15日には、マグニチュード7.2の地震が起きる。

震源地は丹沢山地の説が有力で、「相模地震」「1・15地震」と呼ばれた。

中郡の被害状況は、死者3人、負傷者37人、全壊218戸、半壊954戸であった。

 

出典:「平塚市史 10」他

カテゴリー: 特集 パーマリンク