明治27年(1894年)の日清戦争、明治37年(1904年)の日露戦争と経て、日本では海軍の拡張や無煙火薬の自給自足が切実な問題となっていた。
明治35年(1902年)に、イギリスと日英同盟が結ばれていた。
そこで、明治38年(1905年)、英国のアームストロング社、ノーベル火薬会社、チルウォース火薬会社の3社と海軍は、日本国内に爆発物製造所を設立する契約を締結する。
海軍省は、旧中原御林跡地の平塚町と大野村の約38万坪の土地を買収する。
明治39年(1906年)2月、日本火薬製造株式会社が設立登記される。
資本金は、10万ポンド。
明治44年(1911年)には、「日本爆発物株式会社」と改称される。
明治38年(1905年)10月、平塚工場が起工。
明治40年(1907年)2月に工場は完成し、明治41年(1908年)2月から艦砲用無煙火薬の製造が開始される。
当時、平塚工場に勤務した英国人は、23人。
日本人職工は、明治45年(1912年)に400人あまりであった。
無煙火薬の製造施設は、原料の硫酸、硝酸からニトログリセリン、綿薬の製造設備と成形設備からなり、テンテリュウ式接触硫酸製造装置は我が国最初のものであった。
製造能力は、年産1200トン。
敷地内には工場の他、英国人の社宅やクラブ、運動場などもあった。
クラブの建物(旧横浜ゴム平塚製造所記念館)は、当初は支配人執務室であった。
支配人の居住地は定められていたが、他の英国人は居住区以外に住んでいた。
地域との交流も多く、レクリエーションや素人演芸会などを開催した。
英国人が常住していたため、停車場道や八幡大門には、洋食器・食料品店、洋食店、高級理髪店、写真館、牛肉店、英語塾などが出現した。
大正8年(1919年)3月、当初の契約に従い、日本爆発物株式会社は原価の380万円で海軍に移管される。
4月1日、海軍火薬廠が開庁する。
当時の工場の能力は年産約1200トンで、従業員数は約600人。
以後、火薬廠は拡張され、昭和19年(1944年)8月には、年産約7000トン、従業員が約4500人、徴用工員・動員学徒が約4000人となった。
昭和20年(1945年)11月、戦争の終結に伴い、平塚の火薬廠は廃庁される。
8月15日現在の人員は、5561人であった。
出典:「平塚市史 10」他