平塚競輪場の誕生

1948年、職業選手による自転車競走・「競輪」の法的根拠である自転車競技法が成立。

この法律によって、都道府県及び財政を勘案して自治大臣が指定する市町村は、次のような目的のために競輪が開催可能になる。

 

  • 自転車その他の機械の改良及び輸出の振興
  • 体育事業その他公益の増進を目的とする事業の振興に寄与
  • 地方財政の健全化を図る

 

1948年11月、第1回市営小倉競輪が開催される。

翌年6月には、第1回全国争覇競輪が住之江で開かれる。

 

1949年、政府は、戦災都市に競輪を許可することを決定する。

しかし、競輪が事業として成算があるか疑問に思う風潮があり、平塚も二の足を踏んでいた。

 

そこで政府は、戦災都市以外でも競輪を許可する方針にする。

全国では、40の競輪場が誕生する。

 

いざ開催してみると、競輪は競馬を凌ぐ好成績であった。

そこで、通産省には100を超える出願が提出され、神奈川県からも鎌倉市・藤沢市・平塚市の3市が出願した。

 

神奈川県には、既に横浜市、川崎市、小田原市に競輪場が存在し、許可しないとされた。

しかし3市は、県の力を借りて、もう1ヶ所だけ許可してもらうよう運動を行った。

 

それにより割当を獲得したが、その後の調整はつかず、3市は自由競争になる。

鎌倉市と藤沢市は妥協案を考え、平塚市は窮地に追いまれる。

そこで平塚市は、大物政治家を味方につけて巻き返しを図り、単独で競輪場の設置を許可されることになる。

 

設置の予定地は国有地で、平塚工業が借用して事業に用いられていた。

柿澤市長らは同社の社長に懇願し、借地権を放棄してもらう。

 

銀行からの融資は、困難を極める。

結局、横浜興信銀行(現在の横浜銀行)が、重い腰を上げてくれる。

 

資金として必要な約6千万円は、債務者を平塚市として、保証人を市長と市議全員、担保を市長の宅地3千坪として、横浜興信銀行に融資を申し入れようとする。

その結果、市長と市議の個人保証はなく、5千万円を借りることができる。

 

工事の材料は、市が全て支給した。

大工や土木屋を集めるだけ集め、市議会の建設委員が監督を分担した。

 

工事中の1950年の8月、兵庫県の鳴尾競輪で、八百長の疑いによる焼き討ち事件が発生した。

通産大臣からは、全国の競輪は開催を一切中止し、工事中のものも工事を停止する命令が出される。

しかし、平塚では工事を中止せず、競輪が再開される11月には竣工してしまう。

 

1950年6月に通産省から競輪開催の許可を受けてから、僅か5ヶ月で競輪場は完成。

建設の資材や機械、運搬車両等が乏しい時代で、人力による昼夜兼行の突貫工事で平塚市が一丸となって誕生させたものであった。

 

平塚市営競輪場は、全国第55番目の競輪場となる。

1950年11月23日から4日間、第1回平塚競輪が開かれる。

 

平塚市営として年間12回を開催した1951年度の売上と支出は、次の通り。

車券売上 901,010,000円
車券払戻金 676,587,692円
競輪開催費 85,464,946円
施行者収益 73,090,446円
(参考)1951年度平塚市予算額 313,576,188円

 

1951年度の平塚市の当初予算額は183,455,500円で、9月までの追加更正額が95,715,684円。

追加分の主な使途は、戦災学校の復旧、六三制中学校の整備、その他教育費が42,556,831円、他には戦災土地区画整理事業費負担金など。

この財源の約68%・64,639,160円が、競馬・競輪の利益であった。

 

競輪開催に伴う悪影響は、周辺に与える騒音、交通渋滞、心許ない人達の行為等があった。

犯罪に及んだものや、青少年への悪影響も存在した。

 

市長・戸川貞雄は、初当選の選挙では競輪廃止を公言していた。

しかし、市長就任後、競輪の収益が歳入の20%以上に達していることを知り、公営競輪存続論者に変わっていた。

 

1959年の国会の衆議院商工委員会に参考人として出席した際には、持論の「競輪悪妻論」を展開した。

 

平塚は戦災で8割が焦土となった。

戦災は本来政府の責任で復興すべきものだが、本家(政府)も敗戦で大へんだから分家(市)が自立で立て直すことになった。

そんなとき手クセは悪いが仲々働きのよい女(競輪)がいて貰っては・・・・・・という話が出た。

自由結婚でもなければ恋愛結婚でもない政府の仲人で堂々と一緒になり、多かれ少なかれこの悪妻に頼りやってきた。

それを今離縁しろといってもムリだ。

道義的、社会正義といってもそんな根拠は薄弱である。

亭主に甲斐性がないのだから、もっと連れそわせてもらいたい。

個人の場合だったら女の悪評が高いからと家庭裁判所に持ち込んでケリもつこうが、仲人の政府が横をむいているのだから、別れ話はどだいムリというもの。

平塚は都市整備や校舎増築で金がたくさん要る。

校舎は自然増だけで50級も増築しなければならぬ。

雨天体操場もそうだ。

せめて世間なみの市になるまでは競輪を続けさせてほしい・・・・・・

 

公営競技を主催している全国の自治体は、この悪妻論に対して拍手を送った。

平塚競輪場では戸川の”功績”を称え、毎年「湘南ローズカップ戸川杯」と名づけた記念競輪を開催している。

 

出典:「平塚市史 10」他

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