2002年(平成14年)1月8日、「湘南市研究会」が発足する。
「湘南市」とは、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町、大磯町、二宮町の3市3町が合併して、政令指定都市となるもの。
6町村の人口を合わせると政令指定都市の要件を満たす97万人になるのと、全国ブランドの「湘南」の名に惹かれて、提言したものと言われる。
この件は、翌朝の新聞で大きく報じられる。
しかし、6町村の大部分の人間には、思いがけない話であった。
研究会の会長には、平塚市の吉野稜威雄市長が就任する。
茅ヶ崎市は少し距離を置き、オブザーバーでの参加となった。
吉野会長は、政令指定都市になれば大きな権限によって独自のまちづくりができることや、湘南というアイデンティティを生かした特色のあるまちを目指せることを示した。
そこで、結論はともかく、合併の研究は必要と強調した。
研究は、1年以上に渡って続けられた。
しかし、翌年の4月27日に執行された統一地方選挙の平塚市長選で、吉野候補は湘南市構想の白紙撤回を主張した大蔵律子候補に三選を阻止された。
また、茅ヶ崎市の市長も交代した。
5月26日、統一地方選後に初めて、通算10回目の湘南市研究会が開かれた。
約1時間の議論で、大蔵・平塚市長は「研究会の休止」を、服部・茅ヶ崎市長は「凍結」の姿勢を示した。
この結果、このまま研究を続けることは困難と判断され、6首長一致で研究会の解散が決まった。
1年5ヶ月に渡る研究内容は、各市町の今後のまちづくりに生かされることになった。
なお、話題性が高かった「湘南市」の考えは、今回が初めてということではなかった。
1955年(昭和30年)4月の平塚市長選挙では、三選を目指した柿澤篤太郎候補が、周辺の12町村の合併による湘南市の建設を訴えていた。
しかし、この時は、白紙に戻して再検討を主張した戸川貞雄候補に敗れていた。
出典:「平塚市史 10」他