1950年(昭和25年)、7月1日から1週間、「平塚市復興まつり」が開かれる。
終戦から5年経ち、復興の目星が一応ついたとして、平塚市と商工会議所の共催で開催された。
商店街は競って大売出しを行い、学校生徒の旗行列、生花展示会、市内駅伝競争、花柳界の派手な催し、囃子連の舞台、サーカス、見せ物、野外劇、ミス平塚の選定など、様々な企画が行われた。
連日連夜に渡る催物と商店街の大売出しで、毎日数万人の人出があった。
商店街では爆発的な売上があり、まつりを毎年続けて欲しいという陳情が市に寄せられた。
しかし、「復興まつり」を毎年実施するのはおかしいと、柿澤市長は考えた。
商工会議所の宮代副会頭に相談したところ、仙台を参考に「七夕まつり」として実施することを提案された。
七夕まつりは、いつ来ても見られ、老若男女に喜ばれ、店の宣伝にもなると考えられた。
そこで、同年の8月に仙台に視察団を送り、翌年の1951年(昭和26年)7月から「平塚七夕まつり」として開催されることになった。
初めての七夕まつりは、本当に集客ができるのか不安であった。
このため、素人のど自慢大会、東京八大学対抗角力、芸者の手踊り、舞踊大会、煙草の吸い分け競争、ミス七夕の選考と、多くの催物が実施された。
第1回の「平塚七夕まつり」は、天候に恵まれ、初回としては思わぬ成果をもたらした。
商店街にも、売上をもたらした。
その後、「平塚七夕まつり」は「湘南ひらつか七夕まつり」に変わり、平塚の一大観光行事として現在まで続く。
しかし、その長い歴史の中では、様々な出来事があった。
1972年(昭和47年)には、露店商とのトラブルにより、商店街の会長から平塚市に対して協力できないという申し入れが行われた。
前年のまつりでは、5日間で延べ350万人の人出があり、約19億円の売上があった。
その内、露店商の稼ぎは約2億円で、1200を超える露店が出ていた。
慌てた市は、警察に露店商の規制を要請した。
また、露店商の集中を防ぐため、開催を1ヶ月繰り延べて、8月4日から8日までの5日間とした。
1973年(昭和48年)には、平塚駅ビル(平塚ステーションビル・ラスカ)を巡る、新たな問題が発生した。
4月に開店した駅ビルによって、市と商店街連合会が対立し、緊張感が一気に高まった。
商店街は、平塚駅ビルへの市の資本参加と加藤市長の駅ビル取締役の就任撤回を要求した。
それに対して市長は、七夕まつり中止の宣言を行い、主催を降板した。
この波紋は大きく、市には苦情の電話が殺到した。
そこで、「伝統の灯を消すな」として、商工会議所が主催を肩代わりし、8月4日から8日までの5日間で自主開催の形で実施された。
決定は6月16日のことで、竹飾りや見物人は例年より少なかったが、中止は免れた。
1984年(昭和59年)の第34回七夕まつりでは、紅谷パールロード商店街振興組合が露店商の問題に絡んで竹飾りを出さず、ボイコットする手段に出た。
しかし翌年には、ショッピングモール整備を機に露店が規制され、解決した。
出典:「平塚市史 10」他