明治5年(1872年)9月12日、新橋・横浜間で鉄道が開業し、翌日から旅客輸送が開始される。
明治6年(1873年)9月13日には、貨物の輸送も始まる。
明治2年(1869年)に東京と京都を鉄道で結ぶ計画が立案されていたが、明治19年(1886年)7月には東海道ルートによる敷設が正式に決定する。
鉄道敷設に関して、馬入川(相模川)の鉄橋架設は懸念の一つであった。
しかし、明治20年(1887年)2月5日から5月10日までの工事で、ほぼ完成させる。
明治20年(1887年)7月11日、東海道鉄道(現在の東海道本線)が横浜から国府津まで延長し、それに伴い平塚停車場(平塚駅)が設置される。
当初は戸塚、藤沢、平塚の3箇所の予定であった停車場は、最終的には程ヶ谷(保土ヶ谷)と大磯が加えられた。
平塚駅は、開業当時は「平塚ステーション」または「平塚ステンショ」と呼ばれた。
(日枝神社にある庚申供養塔などに、名残が残っています)
平塚駅の設置は、当初は歓迎されなかった。
市街地を形成していた本宿(元の平塚宿)では、娼妓が逃亡することを恐れた遊郭から、反対の声が上がっていた。
これらが原因かは分からないものの、平塚駅は平塚新宿東側の代官林を切り開いて建設された。
開業当時の横浜~国府津間の所要時間は、約2時間10分。
1日3往復であったが、すぐに4往復になった。
運賃は、横浜~平塚間で、上等90銭、中等54銭、下等25銭であった。
明治22年(1889年)には、東京~神戸間の鉄道が全通した。
鉄道の開業は、平塚とその周辺地域に大きな影響を及ぼした。
平塚駅を中心としたまち並みは、大きく変わった。
旅籠屋や商人、事業者達は、平塚駅のある平塚新宿に移るものが多かった。
また、平塚には、多くの工場が進出してきた。
甘藷や桃、ネギ、魚といった農水産物や物資、人が平塚駅を経由して各地に出て行き、逆に入ってきた。
相模川の河口で採掘された鉄道線路用の砂利を運ぶため、相模川から平塚駅まで砂利運搬用の線路が敷かれた。
鉄道の開通と平塚停車場の開業により、閑散としていた平塚新宿のまち並みは変貌を遂げた。
平塚町の地位も、押し上げられることになった。
出典:「平塚市史 10」他