真土事件

明治11年(1878年)、真土村で起きた質置主らによる質取主への襲撃事件。

 

真土村では、村の戸長・松木長右衛門に質入していた村民が65人(異説あり)いた。

徳川の幕藩体制から明治の時代に変わり、明治政府は質取主に地券を交付していた。

そこで、真土村の質地は、質取主の松木長右衛門に名義が書き換えられていった。

 

しかし、旧来の慣行では、元金を返済すれば、土地が請け戻されることになっていた。

質置主の同意を得ない限り、土地の所有権は移転されなかった。

 

質置主達は、地券の請書について名義を書き換えて欲しいと、松木側に交渉する。

だが、松木は拒否し、交渉は破談に終わる。

 

冠弥右衛門らの質置主は、横浜裁判所に提訴する。

そして、判決により、質地の請け戻し要求が認められる。

 

しかし、松木は、東京上等裁判所に控訴し、逆転で勝訴する。

質地は松木名義にする判決が出る。

 

質置主達に対して松木は、明治9年から明治11年の3年間の延滞小作料の督促と、訴訟入費・約2400円の支払いを求めて訴える。

訴訟費の膨大な借金も抱えた質置主達は、追い詰められていく。

 

冠らは、司法省に駆け込み、訴えようと試みる。

しかし、司法省では、筋違いと突き返される。

 

冠らが上京した留守中に、残された質置主の間では松木家を襲撃する計画が企てられ、準備が進められる。

司法省から戻った冠らも、決起の連判状に署名せざるを得なくなる。

 

10月24日の夜、伊藤音五郎ら若手の有志は、平塚宿の金鱗屋で祝宴を張る。

そして、10月26日の夜、松木の帰りを待ち伏せて、殺害することを企てる。

 

その夜、危機を察知した松木は、待ち伏せていた質置主達を煙に巻き、何とか自宅に戻る。

そこで、襲撃者らは、松木邸への討ち入りを決意する。

 

10月26日の夜中、総勢60人あまりの人間が、松木邸に押し寄せる。

冠や伊藤ら6人が抜刀組、14人が焼き討ち組、4人が指導、その他は家屋破壊組や見張りなどの役割を負う。

 

一行は、屋敷に火を放ち、乱入する。

そして、松木とその親兄弟ら7人を殺害し、4人に怪我を負わせる。

討ち入りを終えた質置主達は、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの家に戻る。

 

事件後、警察は、県内から100人以上を動員して、大掛かりな取調べを行う。

その結果、冠など30人あまりが捕縛される。

 

明治13年(1880年)5月20日、裁判所は判決を下す。

冠や伊藤ら4人が斬罪、8人(実際は7人)が懲役刑8年317日、14人が懲役3年となる。

その後、斬罪を言い渡された4人は、特典を持って終身懲役に減じられる。

 

容疑者達への減刑が行われたのは、嘆願運動が広がったためであった。

周辺3郡の助命嘆願書は140もの村町駅に及び、署名数は約1万5千人に達した。

神奈川県の県令や有力寺院の僧侶らも、これらの動きに同調した。

 

舞台となった松木家では、長右衛門の子・寿之丞と長右衛門の弟・道次郎が難を逃れていた。

そこで、寿之丞を中心に、後始末をすることになった。

 

寿之丞は、第三者を介して、真土村の村民に土地を売り戻すことにする。

また、訴訟費用と小作料の滞納金を帳消しにする。

 

明治13年(1880年)2月、旧松木屋敷地に、多くの寄付金によって真土村共有の持仏堂が建立される。

この事実は、かつての質置主と松木側との恩讐を越えた和解の動きを表した。

 

事件によって収監された者は、贖罪や収贖、特赦などで、早期に出獄する者が多かった。

明治23年(1890年)6月には、終身懲役の4人も含め、全て刑期を終えた。

釈放された者達は、村の再建のために努力した。

 

この事件は、情報の伝達手段が限られた当時でも、広い範囲に知れ渡った。

数え唄として流行ったり、物語風な書物や講談・芝居や歌舞伎の演物になって語り継がれた。

小説家・泉鏡花は、この事件と題材として、「冠弥左衛門」を著した。

 

事件は、先の時代にも伝えられ、50年後の昭和3年(1928年)には、新聞の時事新報に28回に渡って連載された。

旧松木屋敷跡の一角に設けられた自治会館では、現在でも問い合わせがあると言われる。

 

出典:「平塚市史 10」他

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